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名馬購入譚

へそくりで駿馬を購入したというよく知られた逸話ですが、その典拠は新井白石の『藩翰譜』や、室鳩巣の『鳩巣小説』、湯浅常山の『常山紀談』など江戸時代中期の史料で、それ以前に遡ることは出来ず、その事実性は疑わしい。

さらにこの逸話の源流とみられる新井白石の『藩翰譜』においても、逸話を引用した後で「誠にや(本当か?)」と疑問を呈している。不確かな噂レベルの話といったところだろう。

また、山内家の伝記類には全く見えない逸話であり、山内家の外部で生み出された話であろう。

このように名馬購入譚は根拠を欠き、史実とは見なしがたい。
とはいえ、江戸時代において山内一豊夫妻がどのように見られていたのかを示すエピソードとみることは出来るでしょう。

「打破業鏡 大用現前」はへそくり伝説に関する文言か?

妙心寺大通院には見性院(一豊の妻)死去の翌年に描かれたという一豊夫妻の肖像画が伝わり、見性院(一豊の妻)の画の賛には「打破業鏡 大用現前」なる文言があります。この文言をもって、鏡箱より黄金を取り出して名馬を購入したというへそくり伝説が当時既に原型を持っていたのであろう、とする見解がありますが、果たしてこれは如何なものであろう。

へそくり伝説の原型と捉える見解は、「鏡」という文字の繋がりのみで論じる傾向があるのだが、そもそも「打破業鏡」はどういう意味なのか。

これについては、大嶌聖子「名馬購入譚の虚実」(『山内一豊のすべて』新人物往来社)に解説があり、

「打破業鏡」という言葉は、見性院の死後に南化国師(妙心寺大通院)が彼女の画像に書いた賛であることを考慮すると、この言葉を仏教用語としてとらえることができる。このように考えてみて、もう一度、画像の賛の意味を考えてみると、「打破業鏡」の部分の「業鏡」とは、地獄の閻魔の庁で亡者の生前の善悪の所業を映し出すという冥界の鏡のことである。この意味を解釈するにあたり、さらに見性院の当時の動向を合わせて考えてみると、整合的に理解することができる。その手がかりは、彼女が仏教のうち、当時の武士に深く浸透していた禅宗に帰依していたことである。

(中略)

道歌(仏教の精神を詠んだ教訓の歌)をつくるほどの彼女の信仰を考え合わせ、先に示した賛の言葉について改めて考えてみると、見性院は鏡を打ち破るほどに仏縁があったことを示している。このように、当時の彼女の生き方も含めて考えてみると、画像の賛の言葉に鏡という言葉が含まれているからといって、鏡の話が当時から有名であると解釈することは無理なことである。


と、いうことだそうな。
仏教には疎いので、生前の善悪の所業を映し出す鏡を打ち破るということが、顕彰に繋がるのかどうかよく分からないものの、その他は非常に納得のいく解説だと思います。
そもそも画像の賛は、具体的な事績を記すよりどちらかというと漠然とした顕彰の語句を書き連ねているもの。画像の賛をへそくり伝説に結びつけるには根拠を欠くと言えましょう。

山内氏の出身地

室町幕府奉公衆に越前を本拠とする山内氏がおり、一豊の祖先の可能性を指摘しています。織田氏は越前出身であり、尾張守護斯波氏も越前守護を務めており、その斯波氏が越前守護を朝倉氏に奪われて尾張を基盤としたことから、山内氏がそれに従って尾張に移住したとも推測しています。

生年は天文十四年か?天文十五年か?

江戸幕府の編纂になる『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』の両系図は天文十五年(1546)説を、山内家の編纂になる『一豊公御武功附御伝記』という伝記では天文十四年(1545)説を採っている。

両系図も山内家が提出したものを基にしているのであるから、どちらも山内家の見解・・・のハズなんですが何故に異なるのか。結局のところハッキリはしないということであるが、両系図は対外的なものであるから公式見解で、伝記の方は秘された事実、と言うことであれば納得がいく。ただ、わざわざそうする理由は見当たらないし・・・うーん。

天正十二年(1184)に長浜城主就任の真偽

天正十三年(1185)に若狭高浜城主に任じられ、すぐ近江長浜城主に転じるのですが、その前年にも一時的に長浜城主を務めたという。
天正十二年(1184)の長浜城主就任を「初長浜」、翌年の長浜城主就任を「後長浜」、と山内家では呼ぶという。

しかし「初長浜」は疑わしい。

天正十一年の賤ヶ岳の戦い以来、北近江は佐和山城主の堀秀政の支配下にあり、長浜城は廃城となっていたという。その堀秀政が越前北ノ庄に転封となるのは天正十三年閏八月であり、それはちょうど豊臣秀次が近江を与えられ、山内一豊がその老臣として長浜城を与えられたときに符号する。

妻・見性院の出自は美濃か?近江か?

『寛政重修諸家譜』では、一豊の妻を若宮喜助友興の娘と記す一方で、遠藤盛数の三女を山内一豊の妻と記す矛盾を犯しているという。若宮喜助は浅井氏家臣で近江の武士、遠藤盛数は斎藤氏家臣で美濃郡上八幡城主。両者が同一人物という可能性は無さそう。

なお、郡上側の『東家・遠藤家記録』や『秘聞郡上古日記』では遠藤盛数の娘が山内一豊の妻と記されているなど、現在は美濃説が有力なようです。

■一豊の妻・近江出身説
浅井長政に遺領を安堵された「まつ」ですが、その父親は若宮喜助じゃなくて若宮左馬助なのか。混同している史料もあるようだけどね。近江出身説ではこの両者を別人としていますが、それだけでは何とも。

それから、「まつ」が山内家重臣の五藤為重の妻となったこと、近隣から山内家の家臣が多数出ていることなどを挙げ、それをもって近江出身説を補強する、としているが根本的な解決にはなっていない。近江出身説の限界を表しているようにも思う。

■一豊の妻・美濃出身説
かといって美濃出身説も決め手を欠きますなぁ。史料といえば遠藤氏関係および郡上八幡関係に限られるうえに、『寛政重修諸家譜』より古い『寛永諸家系図伝』には遠藤盛数の娘に関する記述が見えないそうですし。

山内家と美濃の諸氏との婚姻関係や、山内家と古今和歌集との関わりなどは美濃出身説の補強にはなっても、根幹たり得ませんものね。

妻・見性院の名前は「千代」か?

輿入れ前は「まつ」と名乗っていたという説もあるそうなんですが、これは討死した若宮喜助の領地をその娘と思われる女性に安堵する旨の浅井長政書状に見える名で、若宮喜助の娘であるという説に基づくもので、そうでなければ全く無関係という。

じゃあ、「千代」というのはどういう史料に基づいてるのかな?と思ったわけですが、
一豊の妻の現存する書状は、一豊死後の晩年のもののみで、出家後の法号「見性院」という自署しか見えないという。

では、「千代」という名前は一体どこから来たのだろう?
土佐藩の帳簿に「千代」という名が見えるので、それを一豊の妻の実名に比定したらしいのだが、これがどうも山内忠義の生母にあたる女性の実名らしく、混同したのだろうとされている。一豊の妻は山内忠義の義母にあたるので、その可能性は高いのではないだろうか。そうなると実名はいまのところ不明ということか。

『御家中名誉』なる史料の祖父江勘左衛門の項に「千代様 妙玖院様御事」とあって、山内忠義の生母・妙玖院の名が「千代」であることが分かるとのこと。

やはり「千代」は別人のようで・・・同名という可能性も僅かには残されているんでしょうけど。

近江瀬田の山岡氏に仕官

美濃牧村領主・牧村政倫のもとで元服して初陣を飾っています。その後、近江瀬田城主の山岡氏に小姓として仕えたという話もあるようなのですが、どうにも唐突な感が否めない。『山内一豊武功記』なるものに記されているそうなのですが、どういった史料なのか。

織田家仕官はいつ頃か

山岡景隆に仕えていたとすれば、山岡が六角氏から離れて信長のもとに従った永禄十一年(1568)に一豊も同じく信長軍に組み入れられたのではないか、と小和田哲男氏は推測しているのですが、それだけでは山岡氏被官から織田氏被官へと変わった理由までは分からないでしょう。まあ、そもそも山岡氏に仕えたことも確実とは言い切れないのですが。

その一方で谷口克広氏は、「山内家関係の諸々の史料によると、山内一豊が信長に仕えたのは、元亀元年(1570)という。」と記しているのですが、これの具体的なことを知りたいです・・・。

兄・左衛門大夫某

『寛政重修諸家譜』に名が見えるのみで委細不明。

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Author:sanraku2
日本史日誌にて取り留めもなく記した山内一豊関連のまとめ。

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